旧日本軍の遺構や記念碑など。
1. Air Raid Shelter Site
Rue. SATOH: 太平洋戦争時に御用邸内に設けられた防空壕の跡。北西と南東それぞれに入口がある。案内板は北西の入口前に設置。
2. 高射砲陣地跡
Rue. SATOH: 下小林に存在した 6 基の高射砲砲台のうちの 1 基を、教育用に当地に移設したもの。
3. 島崎酒造 どうくつ酒蔵
Rue. SATOH: 「1944〜45 年に掘削された地下戦車工場の跡地」とか、どう考えてもワクワクしかしないシチュエーションの場所。東京動力機械製造株式会社が当地に疎開を命じられ急遽造成したものの、終戦のために工場として利用されることはなかった。手堀りの壁面は台湾・金門島の軍事遺構を連想させるが、あちらのクソ硬い花崗岩に対してこちらは柔らかい凝灰質砂岩。平均気温 10 度前後で夏は恐ろしく涼しいが、湿度も半端ない。
4. 陸軍砲兵工科学校跡・工科学校跡
Rue. SATOH: 1872 年開設の諸工伝集所に端を発する陸軍砲兵工科学校が当地 (水戸藩邸跡) にあったことを示す碑で、礫川公園の小石川台地上南端に立つ。水戸藩邸跡には東京砲兵工廠も建設され、小石川台地の地下にはトンネル射撃場も設けられた。当碑の南側斜面にトンネル射撃場への入口が残されているが、現在は封鎖され立入禁止となっている。
5. 旧東京第二陸軍造兵廠深谷製作所給水塔
Rue. SATOH: 1944 年、戦局悪化に伴い陸軍は東京第二陸軍造兵廠板橋製造所を深谷に疎開させて深谷製造所を開所。本給水塔は深谷製造所の火薬製造工場に給水するために建てられたもの。RC 造 5 階建で、5 階部分が水のタンクになっている。戦後は住宅に改造され、現在は個人所有。ちなみに、深谷製作所の本部は現在の深谷第一高校の場所にあったらしい。
6. Central Library
Rue. SATOH: 赤煉瓦部分は東京砲兵工廠銃包製造所の 275 号棟 (弾丸鉛身場) で、1919 年の竣工。銃包製造所は小石川の東京砲兵工廠拡張に伴い、拳銃・弾薬などを製造する銃包部門が 1905 年に十条に移転して成立したもの。戦後は米軍接収を経て自衛隊の倉庫として使われ、後に民間企業のタイヤ再生施設にも転用された。
7. 城ヶ島砲台 地下施設入口
Rue. SATOH: 城ヶ島砲台の地下に設けられた砲側弾薬庫及び揚薬井の主入口。第一駐車場東側のトイレの北東側の踏み分け道を辿ると到達する。迷彩塗装が生々しい。普段は閉鎖されており、内部の見学は見学会への参加が必要。
8. Site of Jogashima Battery
Rue. SATOH: 1926 年竣工の東京湾要塞を構成する砲台の一つで、ワシントン海軍軍縮条約で廃艦とされた戦艦・安芸の四一式二十五糎砲の砲塔が要塞砲塔加農砲として転用されていた。第一駐車場の円形花壇となっている砲座跡や、普段は封鎖されている地下施設、地下施設から地上に伸びる伝声管程度しか遺構は残っておらず、普通に散策していると全く気づかない。
9. Battleship MUTSU Main Battery
Rue. SATOH: 史上初めて 16 吋砲を搭載した長門の 2 番艦として、1921 年に横須賀海軍工廠で竣工。長門と共に連合艦隊旗艦を務めた艦だが太平洋戦争中は温存され、1943 年に謎の爆発により爆沈。
10. 陸軍戸山学校 将校集会所跡
Rue. SATOH: 現在戸山教会が建つ場所はかつての陸軍戸山学校将校集会所。半地下式の重厚な基礎部分がそのまま残されている。
11. 流山糧秣廠跡
Rue. SATOH: 糧秣 (兵員の食料と軍馬のまぐさを総称する兵站用語) を保管・供給する施設であった陸軍糧秣本廠流山出張所の跡地。戦後は跡地はキッコーマンなどの工場として使われ、出張所の倉庫は引き続き倉庫として使われていたという。現在は工場も移転し、当時の面影を残すものは何もない。
12. 圧磨機圧輪記念碑
Rue. SATOH: 黒色火薬の製造に使う圧磨機 (火薬の原料となる硫黄・硝石・木炭を圧輪で粉砕・混和するための機械) で、石神井川の水で縦軸水車を回して得た動力で動かしていた。1865 年に欧州留学中だった幕臣・澤太郎左衛門がベルギーで購入するも明治維新後に新政府が接収、1906 年に黒色火薬の製造が中止されるまで砲兵本廠板橋属廠で利用されていたもの。
13. 東京砲兵工廠銃砲製造所 煉瓦塀
Rue. SATOH: 十条富士見中学校の西側に立つ煉瓦塀は、1905 年に小石川から王子村に移転した東京砲兵工廠銃砲製造所のもの。銃砲製造所は組織改編を繰り返し、1940 年に東京第一陸軍造兵廠に、戦後は米軍が接収してキャンプ王子となりました。1958 年の一部返還後に陸上自衛隊十条駐屯地が置かれ、1971 年の完全返還における残地は学校や公園になっています。
14. 旧日本帝国陸軍東京砲兵工廠跡の基礎用レンガ
Rue. SATOH: 旧水戸藩上屋敷跡に建てられた東京砲兵工廠の基礎用レンガで、東京ドームホテル建設時に掘り出されたもの。東京ドームホテルは旧後楽園球場の跡地に建てられているが、後楽園球場時代はその強固さから取り除くのを見合わせていたという。
15. 陸軍戸山学校跡碑
Rue. SATOH: 1873 年に陸軍兵学寮戸山出張所として設置されて以来、戦技・戦術・軍楽の研究と生徒育成に従事した陸軍戸山学校がこの地にあったことを示す碑。箱根山の東側の遊歩道を少し降りたところの西側にある。
16. 陸軍大久保射撃場土塁跡
Rue. SATOH: 戸山公園の最南端に残る丘状の地形は、1882 年に開設された戸山ヶ原演習場内で、陸軍近衛師団の射撃演習場として利用されていた土塁の跡。ファミリーマート新宿大久保二丁目店の向かい側右手にある消火栓標識の足元附近には「陸軍」と彫られた陸軍境界石が今なお残る。ここでの演習で発生した流れ弾による被害が続出したことから、射撃場は 1928 年に隣に新設された射撃隧道へと移転するも、戦後になって解体。
17. 奥沢海軍村跡
Rue. SATOH: かつて海軍士官が数多く住んでいたことから「海軍村」と呼ばれた地域。奥沢は目蒲線・東横線開通により、横須賀軍港や虎ノ門の海軍省、目黒の海軍技術研究所・海軍大学校への便が向上したため海軍士官が集まり、終戦直前には多数の高級将校が居住していた。奥沢 2-33-2、2-33-15、2-32-16 の 3 軒が旧海軍村住宅として残る。「海軍村跡」の碑は電柱の陰でやや分かりにくい。
18. Former Antiaircraft Gun Position in Sekimae
Rue. SATOH: 中島飛行機武蔵製作所を空襲から守るために設けられた高射砲陣地の跡地。現在は健康遊具が並べられた広場の前に案内板が立つのみ。
19. Odayama Park
Rue. SATOH: 第二次大戦中は現在の桜の広場附近が対空砲台の陣地として使われていた。地下には弾薬庫があり、現在でも公園南側の県道 23 号線からトンネル入口の遺構を見ることが出来る。
20. Ōkunoshima
Rue. SATOH: 平成 30 年 7 月の集中豪雨で、山間部の遊歩道のいくつかが崩落して通行止めになっています。2020 年 3 月現在、南部砲台や中央砲台などの山間部の遺構のいくつかにはアクセスできません。
21. Sakura Castle Ruins Park
Rue. SATOH: 堀田正睦を始め、藩主 9 人が老中に登用 (全国最多) されたことから「老中の城」の異名を持つ平山城。天文年間に千葉親胤が築いた中世城郭を元に、土井利勝が家康の命を受けて完成させた。印旛沼に向かう「馬の背」と呼ばれる台地の西側先端を利用し、川を水堀として、東側台地に城下町を配して守りを固めている。明治維新後は歩兵第 2 連隊・第 57 連隊の駐屯地となったため、それらの遺構もしっかり残っている。
22. 空挺館 (旧騎兵連隊御馬見所)
Rue. SATOH: 旧日本陸海軍から現代まで、日本のエアボーンの歴史が詰まった極めて貴重な博物館。1911 年に東京・目黒の陸軍騎兵学校内に明治天皇の御馬見所として建てられたものを、同校の移転に伴い移築したもの。三笠宮崇仁親王が陸軍騎兵学校に在学中は本館の 2 階に住まわれたという。公開日は月 1 回あるかないかなので、第一空挺団のサイトで要確認。
23. Chiba Park
Rue. SATOH: 旧陸軍鉄道第一聯隊の演習場跡地を公園として整備したもので、千葉市最初の総合公園。緑も豊かで荒木山のような程よい高低もあり、散策して楽しい場所です。鉄道第一聯隊遺構のうち、鉄道聯隊演習用トンネルだけは千葉市中央・稲毛公園緑地事務所 (モノレール千葉公園駅近く) の裏手と、分かりにくい場所にあるので注意。
24. 旧陸軍演習場内圍壁 (支那囲壁砲台)
Rue. SATOH: 中国での戦闘を前提に、中国の家屋を模して作られた演習用の砲台。1934 年に第一師団所属の工兵第一大隊が旧陸軍習志野演習場の南端近くに建てたもので、長さ 20m、高さ 3.3m、厚さ 30cm ほどの鉄筋コンクリート造壁と、3m 角平面の 2 階建望楼部から成る。壁にあるアーチ状の入口が中国っぽい。登録有形文化財 12-0041。
25. ドイツ捕虜オーケストラの碑
Rue. SATOH: この碑がある東習志野四丁目児童遊園附近は、第一次大戦中に青島で捕虜となったドイツ兵 4,715 人中の約 1,000 名を収容した習志野俘虜収容所があった場所。所長は西郷隆盛の嫡子でドイツ留学の経験もあり、プロイセン陸軍少尉にも任官した西郷寅太郎。寅太郎は捕虜を丁重に扱い、このオーケストラも寅太郎の許可のもと開かれたという。
26. 号砲台跡
Rue. SATOH: 旧陸軍習志野演習場で午砲 (正午を知らせるために撃つ空砲) を撃っていた場所を記念して築かれた小塚。
27. Yawata Park
Rue. SATOH: 旧陸軍騎兵第一旅団・第二旅団の司令部が置かれていたのは大久保 4 丁目 2 の (道路を挟んだ) 両区画。現在の八幡公園の場所は講堂として使われていた。神社側から入ってくるとただの児童公園にしか見えないが、園内には騎兵旅団に関する様々な碑が残されている。西側に面する公園入口には、かつての司令部正門の門柱が移設されている。
28. 東京湾要塞第二区地帯標
Rue. SATOH: 1899 年に制定された要塞地帯法に基づき要塞地帯の区域を表示するために設置された標識で、大船警察署山ノ内交番の手前に建っている。左側面は「昭和十六年七月二十日建設」、右側面は「第四五号」とそれぞれ読める。
29. 陸軍工兵学校倉庫跡
Rue. SATOH: 旧陸軍工兵学校の軽油保管庫だったと伝わる建物。イトーヨーカドー松戸店前の道路を少し北に行き、東側にある「聖徳大学入口」と書かれた看板横の階段を登った場所にある。気付きにくいが、階段脇の角には「陸軍用地」と書かれた境界杭も残っている。
30. 海軍工作学校跡
Rue. SATOH: 海軍工作学校は海軍工機学校の工作科が 1941 年に分離独立して設立された軍学校で、金工・木工・潜水などの分野を担当。1944 年に築上術や航空機整備を担当する沼津海軍工作学校が設立されたことを受け、本校も横須賀海軍工作学校に改名。碑銘は最後の校長である美原泰三少将の揮毫。
31. Kannonzaki Park
Rue. SATOH: 今でこそ豊かな自然が残された憩いの場だが、かつては帝都と横須賀軍港を守る重要拠点として、1881 年から終戦まで立入禁止の要塞地帯となっていた場所。園内には明治期に作られた砲台跡が多数残り、主要な園路も当時の軍道をそのまま利用している。観音崎には 1895 年までに煉瓦とコンクリートによる近代砲台が 15 ヶ所も築かれたが、関東大震災で大破したため大正末までに全て廃止された。
32. Hashirimizu Lower Gun Battery Site
Rue. SATOH: 明治 18 年起工、明治 19 年竣工。明治 37 年には当時最大の 27 センチ加農砲 4 門が設置される。当初は「走水砲台」という名前だったが、明治 27 年に走水高砲台が出来たために「走水低砲台」と改称。2018 年時点で訪問するにはガイドツアーに参加する必要あり。
33. Daisankaiho Large-sized Barracks
Rue. SATOH: 1921 年に観音崎沖に建設された第三海堡で兵士の居住区として設営された建物。第三海堡は難工事の末に完成したが 2 年後の関東大震災で崩壊して破棄。2000 年代の撤去工事で引き上げられ、現在はここで展示されている。
34. 旧海軍下士官兵集会所跡
Rue. SATOH: 横須賀芸術劇場の裏手にへばりつくようにひっそりと設置されています。碑があるだけで説明も何もなし。
35. Memorial Ship Mikasa
Rue. SATOH: 舳先を皇居に向けて固定されています。軍服の展示がしっかりしているので、制服萌えには堪らない。
36. 明治大学平和教育登戸研究所資料館
Rue. SATOH: 旧陸軍内では陸軍中野学校と並び厳秘扱いとされていた第九陸軍技術研究所 (「登戸研究所」は秘匿名) の歴史を今に伝える資料館。外壁こそ塗り直しているが、細菌兵器を開発していた研究所第二科の実験棟をそのまま利用している。怪力光線、風船爆弾、スパイ用の消えるインキから細菌兵器、毒物、贋札造りまで、旧日本軍の軍事研究内容を取り上げた展示は極めて貴重。入館無料。
37. 軍標 陸軍東部62部隊
Rue. SATOH: 「東部 62 部隊」は 1942 年に当地に移転してきた旧陸軍歩兵第 101 連隊の秘匿名。陸軍は駐屯地及び演習場を設けるべく 1940 年から宮前区から溝の口までの広い範囲を接収、住民は強制的に移転させられた。この軍標は連隊駐屯地の境界を示すもの。馬絹地区には三基の軍標が残されているというが、公道上で確認できるのはこの一基のみ。
38. 野島掩体壕
Rue. SATOH: 横須賀市夏島にあった横須賀海軍航空隊基地の戦闘機を空襲から守るために作られた、国内最大規模の掩体壕。1945 年の 3 月から 6 月にかけて掘削されたと伝わる。長さ 260m、高さ 7〜8 m で、同時期に掘削された夏島掩体壕と合わせて小型機 100 機を格納する予定だったが、終戦に伴い一度も使われずに放棄された。入口は塞がれており、内部を見ることは出来ない。
39. 松戸中央公園
Rue. SATOH: 当時この地にあった松戸競馬場を現在の中山競馬場の地に移転させて 1919 年に開校した旧陸軍工兵学校の跡地。戦国期には後北条氏と里見氏の合戦 (国府台合戦) の激戦地だったと伝わる。
40. Musashino-no-mori Park
Rue. SATOH: 元は東京調布飛行場の一部。調布飛行場は戦後に米軍が接収したが 1973 年に全面返還され、周辺の一部が 2000 年に公園化された。大沢グラウンド通りの東側に位置する区域には「遊びの広場」という名前がつけられているが、ここには旧日本陸軍時代の飛行場の数少ない遺構として掩体壕が 2 基残されている。
41. 相模海軍工廠跡
Rue. SATOH: 一之宮 7 丁目附近は、1942 年に設立された相模海軍工廠寒川本廠の跡地。1930 年に設立された海軍技術研究部化学研究室が海軍技術研究所化学研究部を経て昇格した工廠であり、当地にあった昭和産業一之宮工場を買収して設立された。火工兵器や防毒マスクの製造を担当した化学工場であり、2002 年にも旧軍の化学剤が入った瓶で作業者が被災するという事案が発生している。
42. レンガ造りのトンネル (旧陸軍弾薬庫隧道)
Rue. SATOH: 戌亥櫓跡の北側石垣にいきなり顔を出す煉瓦造のトンネル。このトンネルの本丸側に弾薬庫が置かれていた。煉瓦はイギリス積み。
43. Futtsu Park
Rue. SATOH: 1884 年に富津岬の砂洲上に構築された元洲堡塁砲台、及び堡塁除籍後の 1922 年からは旧陸軍技術本部の実射試験場「富津射場」に転用された場所。点在する軍事遺構、防風林内に巡らされた遊歩道、表情がまるで違う南北二つの海岸など、散策し甲斐のある公園。かなり広いので、富津岬まで徒歩で回るならそれなりの覚悟で。
44. Akayama Underground Tunnels
Rue. SATOH: 総延長 1.6km にも及ぶ巨大な地下壕なのにもかかわらず、いつ掘られたかははっきりしないらしい。終戦直前には館山海軍航空隊の防空壕として使われており、自家発電所・応急治療所・格納庫が設けられていた。普通に頭をぶつける箇所があるので、ヘルメットはしっかり被るが吉。照明が届かない場所は本当に闇の中で、懐中電灯一本では心細いほど。
45. Entai Hidden Bunker
Rue. SATOH: かつてはこの周辺だけでも 10 基あまり存在した掩体も、現在残っているのはこの 1 基だけとのこと。天井が低く見えるのは、純粋に年月が経って土砂が堆積したためだと思われる。
46. 洲ノ崎海軍航空隊射撃場跡
Rue. SATOH: 的となる約 6m の射朶 (山腹に設けられた窪み) の手前約 100m の位置に戦闘機を配置し、機銃を直接発射することで機銃の調整を行った場所。案内板などはなく、農地の間の道をひたすら進むと見つけられる。
47. Remains of Maneuvering Ground for Railroad Regiment No.1
Rue. SATOH: 現在の千葉公園はかつて鉄道第一聯隊の演習作業場であり、鉄道の保守・新設・修理はもとより、敵地での鉄道破壊訓練も行われていた。現在でも様々な遺構が残る。
48. 秋水 燃料庫跡
Rue. SATOH: 旧陸軍柏飛行場に配備される予定だったロケット戦闘機・秋水用の地下燃料貯蔵庫。出入口は塞がれています。
49. 秋水 燃料庫跡 (通気孔)
Rue. SATOH: 旧陸軍柏飛行場に配備される予定だったロケット戦闘機・秋水用の地下燃料貯蔵庫の通気孔。農地に突き出している姿が恐ろしくシュール。
50. 旧陸軍第4航空教育隊 (東部第102部隊) 営門
Rue. SATOH: 営門は梅林第三公園附近から移設されたもの。当公園が面する柏仲通り附近は演習場と兵舎を仕切る土手が置かれていた場所に見えるが、現在は痕跡らしきものは残っていない。
51. 旧陸軍東部第105部隊の営門
Rue. SATOH: 「東部第 105 部隊」は 1938 年に開設された陸軍柏飛行場の別名。立川飛行場から飛行第 5 戦隊の部隊本部が転営し、南側には 1940 年に第 4 航空教育隊 (東部第 102 部隊) も開設されるなど、附近一帯は首都圏の防空を担う軍の要地となった。終戦後は農地に転換されるも、朝鮮戦争勃発を期に一帯は米軍に接収され柏通信所 (キャンプ・トムリンソン) となる。全面返還は 1979 年。
52. こんぶくろ池自然博物公園
Rue. SATOH: 園内北側には、ロケット戦闘機「秋水」の燃料庫 2 基が埋蔵保存されている。保存場所には案内板あり。
53. 陸軍用地境界杭
Rue. SATOH: 1937 年から終戦まで当地附近に存在した東京第一陸軍造兵廠川越製造所 (東一造川越) の敷地境界を示すために設けられた境界標石の一つで、番号は 469。福岡中央公園南東角の交差点に立つ。東一造川越の開設時点の名称は陸軍造兵廠東京工廠火具製造所福岡工場。1940 年に東京第一陸軍造兵廠第三製造所福岡工場と改称され、東一造川越の名は 1942 年から。
54. 陸軍用地 (六番) の碑
Rue. SATOH: 1937 年から終戦まで当地附近に存在した東京第一陸軍造兵廠川越製造所 (東一造川越) の敷地境界を示すために設けられた境界標石の一つ。19cm 核の花崗岩で出来ており、以前は造兵廠正門付近に立っていたが、1966 年に上福岡消防署を建てるに際して当地に移転したもの。屋外展示であり、歴史民俗資料館の営業時間外でも見学可能。
55. 陸軍工科学校・陸軍兵器学校跡碑
Rue. SATOH: 麻布大学の敷地はかつての陸軍兵器学校。1872 年に小石川に開設された諸工伝習所を祖とし、1920 年に陸軍工科学校、1940 年に陸軍兵器学校となる。当地へは 1938 年に移転。遺構などは残っておらず、1977 年建立の碑が麻布大学の南側が立つのみ。最後の校長・辻演武少将は既に死去していたため、その前の永野叢人少将が揮毫。
56. 大浦探照灯格納庫跡
57. 剱崎砲台跡
58. 剱崎第二砲台跡
59. Chiyogasaki Gun Battery Site
Rue. SATOH: 1892 年から 1895 年にかけて陸軍が築いた砲台。対岸の富津本州砲台と共に援助砲台として位置付けられており、観音崎砲台の側防及び浦賀湾前面海域の防御を任務としていた。28cm 榴弾砲 6 門が並んでいたかつての遺構が生々しく残る。電気も水道も通っておらず、水は天水を沈殿・濾過して使っていた。ボランティアガイドの説明がしっかりしているのでガイド付きでの参加 (予約不要・無料) をお薦め。
60. 鉄道連隊跡
61. 旧帝国海軍の標柱 (山手)
62. 旧帝国海軍の標柱 (行田)
Rue. SATOH: パークコート宮ノ前の前に埋もれた形で存在。
63. 東京第二陸軍造兵廠 岩鼻製造所跡
Rue. SATOH: 火薬の増産を目的として、旧陸軍が 1882 年に東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所として開設。組織改編に伴い 1923 年からは陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所、1940 年からは東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所となる。群馬の森内に残る土塁と樹木は、爆発事故時の爆風を防ぐために設けられたもの。現在も土塁の裏手にはコンクリート製の往時の設備がひっそりと残るが、須く立入禁止。今からの公開は難しそう。
64. 近衛歩兵第四連隊の軍用地境界標
Rue. SATOH: 青山高校テニスコート脇の電柱の陰にひっそりと立つ。
65. 北区中央公園
Rue. SATOH: 小石川の東京砲兵工廠拡張に伴い、拳銃・弾薬などを製造する銃包部門が 1905 年に十条に移転して成立した東京砲兵工廠銃包製造所の跡地。1940 年の組織改編以後は東京第一陸軍造兵廠となる。戦後は米軍の接収により東京兵器補給廠 (TOD) となり、1971 年に返還。現在の公園となったのは 1976 年。
66. 陸軍技術研究所境界石杭
67. 旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕
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